3月末から毎日が日曜日なのでできるだけ朝夕散歩をすうようにしています。5月のある日の夕方散歩していて、岡ビルの近くに「岡山で一番小さな古本屋・隠書泊(おにしょはく)」というお店があることに初めて気付きました。岡山に引っ越してきて17年ちょっと。色々歩いているようで、大抵同じ道ばかり歩いていたのでしょう。本も整理されていて、感じのいい店です。たしかこの日は「ヴィーチャと学校友だち」(ノーソフ)と「死線を越えて」(賀川豊彦)の2冊を購入しました。
先日覗いたときに購入した2冊のうちの一冊が「老いらくの記」(石坂洋次郎)です。年をとったので、他の人がどう老後を過ごしたのか参考にしようと思ったのですが……、これがなかなかスゴイ本でした。買ったのは1984年に刊行された文庫本ですが、元は1977年に出た単行本の文庫化です。中身は前半が「I 老いらくの記」(朝日新聞に連載された15篇に7篇追加したもの)、後半が色々な場所に掲載されたエッセイからなる「II 老年もまた楽し」です。まだIしか読んでいません。というのも新聞連載の9回目の「妻の名は『……』」という文章がすごくて、そこから他の本へと移っていったからです。
石坂洋次郎は21歳のときに17歳の女性と結婚しています。「妻の名は『……』」はその妻のことを書いた文章です。その冒頭の部分を書き写してみます。
五十年連れ添って五、六年ばかり前に亡くなった妻の名はゆみ子。同じ弘前市内の八百屋の長女で、私と知り合ったころは横浜のミッション・スクールに通っていた。何故ミッション・スクールかというと、女学校時代からの彼女の恋人は、町のプロテスタントの教会の牧師さんだったからである。(中略)
ところが、たまたま東京の文科大学に通っており、町では不良な文学青年として知られていた私とつき合い出だすと、双方ともにメラメラと熱く燃え上がり、あっという間に結婚してしまったのである。
ゆみ子が、ある晩(こどもが二人いるような頃)、寝床の中で、かつての恋人だった牧師さんとのことを石坂に語り始めるんです。
「夏休みなど、私達は泊まりがけで近くの農村によく伝道にまわったの。知り合いの農家に泊るでしょう。一つ蚊帳の中に寝床を二つ並べて敷いてくれるのよ。ランプを灯してあるわ。シーンとして、虫がたくさん鳴いて、感動的なのよ」
私はつづいて語られるにちがいない、牧師さんと彼女が激しく抱き合う情景に耐えられるよう胸の鼓動を整えていると、まったく違った話が出てきたのにはびっくりさせられた。
「彼と私は蒲団の下からさしのべた手を握り合い、男に負けない積極性がある私の方から発言するの。『農家の人達って男女ともセックスぐらいしか楽しみがないでしょう。あんなもの、快楽なんてものじゃないわ。私達、農民達が神の道に目覚めるよう努力しましょうね』って。……牧師である彼は感動して、何べんもうなずいて私の手を握り返すのよ」
読者としてはちょっと期待外れの(笑)はなしなんですが、石坂は二人(牧師とゆみ子)が神一筋に生きぬいていたことに感動するんです(爆笑)。さらに、そのことに感動した自分自身にも感動するんです(大爆笑)。石坂洋次郎の作品にはユーモアがあるとは聞いていたのですが、かなりひねくれたユーモアです。
それに続くゆみ子のおしゃべりが過激で本当に驚きました。もう亡くなっているからと言って、こんなに赤裸々に書いていいんでしょうか。これが1976年の朝日新聞に掲載されたというのが信じられないくらいです。あまりに過激なので、少しだけ写しておきます。
私と彼が愛し合いながら肉体の接触がなかったのは、彼の方が牧師の指命に徹しすぎて、性的な牽引力がゼロだったのね。そのころまでの私がそうだったのかも知れないわ。それが双方の親達も世間も公認して、私達が夫婦になってしまうと、私が急激にセックスに目覚めたのは、貴方という人は、小柄なくせにセックスの塊みたいな存在だったからだわ。貴方、告白したでしょう、中学上級から私達が結婚する大学の半ばまで、三日に一ぺんはオナニーにふけっていたって……。その精力で私を求めているんですからね。(後略)
ところで、石坂洋次郎の奥さんの名前はゆみ子ではないんです。この文章の最後は次のように締めくくられます:
――最後に亡妻の名を「ゆみ子」と記したが、これはほんとうではない。本名は「うら子」なのだが、本名を用いると文章が書きづらくなったりするので仮名を用いたのである。読者よ、あしからず。
う〜む、ゆみ子さんならぬうら子さん……なかなかスゴい人ですね。面白すぎです。
この人のことがもっと知りたくなって、ネットで検索してみました
するとなんと石坂とうら子さんの夫婦関係を元にした作品がぽろぽろと見つかりました。石坂は1900年生まれですので年齢がわかりやすいです。
1927年「海を見に行く」(短篇、『三田文学』に掲載)
1936年「麦死なず」(長編、『文芸』に一挙掲載)
「海を見に行く」は彼の処女作で、石坂とうら子が喧嘩ばかりする話です。
「馬込文学マラソン」というサイトに紹介記事がありました:
石坂洋次郎の『海を見に行く』を読む〜凄まじい夫婦喧嘩
https://designroomrune.com/magome/a-o/ishizaka/ishizaka.htmlこの作品は昔買ったまま読んでいなかった「河出書房・日本文学全集30石坂洋次郎」にはいっていたので読めました。ともかく、妻(小悦の中ではフク子)のことをぼろくそに書いています。でも喧嘩のやりとりが凄くおかしいんです。だけど妻のフク子が好きなのがぽろっと漏れてきます。田舎で親しくしていた室田という男が、田舎の生活がいやで家を飛び出してきて、彼等の家に居候することになります。その部分から少し引用します。
室田があらわれたのは、私たちがそんな生活をしてるときだった。フク子は蓮っ葉に握手を交わしたりなどして歓迎した。火鉢を囲んで紅茶を啜り、故郷の話が一と通り済んでから、髭が伸びて青ざめた頬を撫でまわし「家庭生活っていいもんだなア」と室田が洩らすのをきいて、私までがウッカリそんな気になりかけたぐらいだった。
室田は結局仕事探しもあまりせずぶらぶらするだけ。フク子は、早く田舎に帰って貰えと夫にいいますが、室谷は帰る汽車賃もありません。行くところもなくて、夫と室田は海を見に芝浦に行き、唄ったり、寝ころんで話をしたりしますがいつのまにか室田は眠ってしまいます。夫は妻に嫌気がさして、「恋愛(ラブ)」をしたいと思っていますが、いっぽう、家にいるフク子や3歳の息子ハルキチがどうしているかを思い浮かべたりする……そんな話です。
「麦死なず」については以下の記事が見つかりました。
主人公(石坂)は「五十嵐」、妻(うら子)は「アキ」となっています。
A 出版・読書メモランダム>古本夜話
古本夜話845 石坂洋次郎『麦死なず』と『雑草園』
https://odamitsuo.hatenablog.com/entry/2018/11/23/000000B 青空文庫
文学と「地方性」宮本百合子
https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2891_9140.htmlC 朝日新聞 Travel > 愛の旅人
石坂洋次郎「麦死なず」〜五十嵐とアキ
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200705190087.html(二人の写真もあります)
AやCの記事に書いてあるように、アキが男を作って弘前と東京を行ったりきたりする話です。最後の方で五十嵐はアキにこのことを小悦に書くと宣言します。これは読み応えのある作品でした。ともかくアキがすごいです。実際のうら子さんがどうだったのかはわかりませんが、よくこの小説をだすことを許したもんだと思います。kindleで読めます。お薦めです。
さて、家出の時の相手とはいちおう終わった後もアキは「五十嵐の家に出入りする青年らと自由奔放な交際をはじめ出した」とあります。そのあとに、『海を見に行く』と同様に、ぽろっと妻の魅力を求めるところがありますので、引用しておきます。
若い異性に接する刺激と、すでに五十嵐から見限られたらしい自分の素晴らしさを、これらの青年たちについて再テストすることによって、うすら寒い胸の間隙を充塞しようというのだった。したがって青年らに接する態度にも、自分の好さを一ぺんに相手に分ってもらって、同時に自分をもそのごとくに好いてもらおうとする迫った感じのものがあり、五十嵐が時々示す消極的な拒否の表情などは一とたまりもなく吹き飛ばされてしまうのだった。五十嵐は自分の妻が他の男と交際することを必ずしも拒むものではなかった、感情的にも、理性的にも。だが、アキの場合は、例えば自分の素肌をチラッと覗かせて相手の青年らを牽きつけているような味気ない感じのものに受けとれて、忍びがたい気がした。家の中は隅々まで開放する、一緒に町を歩く、青年らの家に遊びに行く、婦人病で寝ている枕許に見舞いに来てもらう、シャツを編んでやる、話題は簡易英語発音法から人事百般に及び、あり合わせの御馳走は残らず並べて、決して青年らに屈託な思いをさせないのだ。笑い声はことに朗らかだ。肥った身体をゆすぶり、薄赤い喉の奥を覗かせて、天井板を突き抜きそうに腹いっぱいな声をあげて笑い出す。信服するその肉声の響きの中には、アキのもつ無邪気な子供らしい人間味の一面が豊かに溢れていて、五十嵐でさえうっかりアキを好きになっていることがあった。
これってもろに惚気じゃないですか(笑)。
そのあと、青年に肩敲きさせたり、そのあと青年たちのまん中に仰向けに横たわって、云々のあとに五十嵐は「やり切れない気持ちだった」と書いていますが、実は喜んでいたんではないかと勝手に推察します。そんな風に考えるとこれは妻へのラブレターのような作品なのかもしれません。
さて、「老いらくの記」の他の記事については、また別の記事に書くことにします。書かないかも知れませんが、あしからず(真似すんなって・笑)。