2017年11月12日

朗読『吉原新話』 泉鏡花 怪異の世界

11月5日(日)、西川アイプラザ5階ホールで開催された「朗読塾第21回公演・朗読『吉原新話』 泉鏡花 怪異の世界」に行ってきました。

朗読塾のサイト:


配布資料 表紙、裏表紙
yoshiwara2017_01.jpg yoshiwara2017_04.jpg

内側 左ページ、右ページ
yoshiwara2017_03.jpg yoshiwara2017_02.jpg

朗読塾の公演(立体朗読!)はこれで2回目。前回は2010年の第14回公演『朗読 川端康成の世界』でした。
http://flim-flam.sblo.jp/article/41907398.html
この記事の最後に「朗読塾の公演、来年も期待しています。」と書いておいて、かなりサボってしまい申し訳ないです(苦笑)。

先月は東京で澁澤龍彦の作品の朗読劇を観ましたし( http://flim-flam.sblo.jp/article/181447292.html )、今月は岡山後楽園で漱石の『夢十夜』も聴きます。

さて、鏡花は好きですが、この小説『吉原新話』は読んだことがありませんでした。予習しておきたかったんですが、時間がなくて、冒頭だけ読んだままで当日になってしまいました。

『吉原新話』は青空文庫にあがっているのでどなたでも読むことができます:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1179.html
ただamazonでkindle版が0円で買えますので、タブレットでkindle版を読むのも便利です。


配布された資料によるストーリーの紹介です:
七月のある夜、引手茶屋では百物語の会が催されようとしていた。一番若い民弥は、参加者に促され、その日に出会った「要領を得ないこと」を話し始める。そして夜も更け……。
会の明くる晩、帰宅した民弥は、梅次に会での子細を話すのであった。


読み手は全部で14人!(数え間違いでなければ) かなり多いです。うち3名は地の文を交替で読む方々、残りは登場人物のせりふを読む方々。

正直、耳で聞いただけではなかなか内容が伝わってきづらかったです。時々ふっと眠ってしまいました(笑)。ただ「婆」が登場した途端、一遍に目が覚めました。でも結局、誰かが病気の弟のためにお百度参りをして、弟の命を救う変わりに自分が亡くなってしまったんだな……ということだけがおぼろにわかっただけ。

せっかくなので、読み始めた原作(短編です)を少しずつ読み通し、今日も再読してみました。まだおぼろなところがありますが、だいたいの構成は理解できました。よくできた小説ではありませんか。これなら、4日(土)の夜の部を聴いて、その晩と翌朝原作をしっかり読んで5日の昼の部でもう一度舞台を堪能すればよかったと思いました。

聴いていてイメージがあまりわかなかったのは、その亡くなってしまう芸者・照吉はまったく舞台に登場しないからかもしれません。「亡くなってしまう」で思い出しましたが、実は死んでしまうのは照吉姉さんだけじゃなくて、もう一人(女郎)も亡くなっていたんですね。聴き取れませんでした。

進行に沿ってキーポイントを書き出してみます。

舞台は引手茶屋の2階。暑い時期なので縁の障子は開け放してありますが隠すために「うめ」という名前のはいった「幕」として使っているという説明があります。「うめ」とあるのは以前いた芸者・梅次(民弥の連れ合いということはこの時点ではわかりません)のために贔屓が贈ったものなのでした。そこにその店の姉御であるお才がお茶を持ってきて「梅干しもありますよ、いかがですか甘露梅」と「梅」だらけのせりふをいい、民弥に声をかけるあたりで、お才のそれとない意図が周りの人にわかる……そして読者にも民弥と梅次との関係がわかる……という流れになっています。読むと、すごく面白い☆ 聴いているとさっぱり(笑)。いや、あらかじめ家で読んだときは、ここらあたりはストーリーだけ読もうと、すっとばして頭の中に何も残っていませんでした。ゆっくりゆっくり声を出しながら読むのがいいのかもしれません。

(全然先に進まなくてすみません、また脱線です)それで思い出したのですが、去年職場を退職したKさんは、家で毎日お連れ合いを聞き手にして朗読をしておられるとのこと。ああ、いい夫婦だなぁ……と思います。うちでは……連れ合いが麻雀ゲームに忙しいのでそんな時間は作れないですね。石牟礼道子さんの『十六夜橋』はすごいよ、ぜひ読んでよ、と前から言っているのですが、連れ合いがよんでくれないので、ぜひぼくが毎晩寝る前に朗読してあげたいな……と思います。

それで今度はもっと昔のことを思い出したのですが、まだ子どもが出来ていないときに、ぼくの先生の家に夫婦で呼ばれたときのことを思い出しました。先生の家にはネコがたくさん(5,6匹)、犬が2匹、あと馬が何頭か(これは家ではなくて厩舎ですが)いました。犬は大きい方の名前が Puppy で、小さい方が Beorn という逆転した名前でした。Beorn と聴いて、それって "Hobbit" に出てくる熊の精からですか? と聴くと、その通りで、彼は Hobbit や Lord of the Rings が好きで、毎晩子どもたちに読んでやるんだという話をしていました。非常に家庭的な人で、家の仕事をしっかりやって、数学は朝四時に起きてやるんだと話してられました。部屋を一部屋増やすぐらいのことは自分でしておられました。今でも、ツリーハウスを作ったりしています。その影響で、ぼくも子どもが出来てから、最初は絵本の『おさるのジョージ』とか『帽子をかぶったネコ』などのDr. Seussシリーズ、『がまくんとかえるくん』シリーズ、『ネズナイカ』(Dunnoというのは「ネズナイカ」の英語訳です)、ロアルド・ダールの子ども向けの本など、さらには『ホビット』や『西遊記』などを読んでやることになりました。懐かしいです。

閑話休題。

お才よりもずっと若いお三輪(店の娘。民弥のことが好きなのかもしれない……)は、お才が梅次のことを民次にほのめかすのをいやがり、お才を1階に連れ出して、梅次姉さんのことをいうと民弥(兄さんと呼んでいます)に迷惑だと伝えるのですが、それが二階にも聞こえるので、周りの客や読者へのだめ押しになります。

その後、部屋の電灯が消されます。燭台は用意してありますが使われません。誰かがそれを衣紋掛け替わりに夏羽織りをかけています。それにどこからか外から来る光が透けて見える……という描写から、窓の外の光に焦点が移ります。一番近いのはすぐ表にあるガス灯。その光が幕の縫い目を漏れて部屋に入ってきて、入り方に応じて羽織の透け方が変わります。人が動いたときの影の変化も描写されます。

ここで(それともひょっとしたら、話を時間的にさかのぼってりうのかもしれない……)幹事の挨拶があり、参加者が読者に紹介されます。近所の芸者3人が役者が来ているという話をお才から聞いて、階段からそっと覗いて、目当ての役者が来ていないのを知り「あらいやだ」といって戻っていくエピソードが語られます。お三輪があがってきて、お才が芸者衆を上にあげたことをわびるのですが、このとき「明るすぎましたら電燈をお消し下さいましな、燭台をそこへ出しておきました」というお三輪のせりふがあって、電灯がついていたのか消えていたのか、よく理解できません。このあと「あらいやだ」という台詞が3つ続いて合計4つ。ちょっとしたユーモアかも。

その後怪談が次々に語られ、内容は箇条書き的に羅列されます。ある人が猫についての話をしたときに、その部屋の窓の外が物干しになっていて、一またぎでそこに上がれるようになっているんですが、その物干しの上らしきところで「ゴロロロロ、」と猫らしき声がします。民弥が、彼に縋り付いて話を聞いていたお三輪にこの家の猫なのか尋ねると、この家の猫は先日死んだという返事。近所の猫の声は知っているけれど、今の猫の声は知らないから野良猫ではないかと言います。お三輪が窓の外をみますが猫は見当たりません。参加者にうながされてお三輪は窓を閉めます。

この窓がとても怪しいのです。階下へ用足しにいくとき窓のそばを通るとなにやらヒヤリとするので、窓を閉める……ところが戻って来るとまた開いている……それが他の人でもそんなことが繰り返されるのです。それまでいくら怪談を聞いても怖い思いはしていなかった参加者たちですが、猫の話以降、妙な雰囲気になります。ここで、電灯を消そうと言うことになります(先ほどの時点に戻ったということなのでしょうか)。

ここで、再度外の灯りの話になります。外のガス灯以外に、あと2つ灯りがあるのです。この2階からみると斜め向かい側の方にある遊郭の三階のある部屋の障子が開け放してあり蚊帳が釣られていて、行燈が灯っていてそこだけが仄明るく見えるのです。[この部分の描写がなんだか雰囲気はすごいのですが、何度読んでも頭に入ってきません。]もうひとつは、2軒の引手茶屋に挟まれた低い家からの灯り。このあたり大事なところですが、聴いていてもよくわかりません。

ここで、それまでひとつも怪談をしていない民弥になにか話してくれとリクエストがあります。そこで彼はこの家に来る途中の体験談を「何にも彼にも、一向要領を得ないんです」と話し始めるんですが、話に入る前にお三輪に、このあたりに今夜あたりお産がありそうな家はないかと尋ねるんです。お三輪はそんな家の話はしらないというので民弥が、上で出てきた暗く灯りのついた家に夜になっても人の出入りがあるようで、お産ではないかも知れないけれど何かあるんじゃないか、病人でもいるんじゃないか……と言います。するとそれが当たっていて、病人というのが梅次と並び称されていた芸者の照吉だったのです。彼女自身は別の引手茶屋に出ているのだけれど、そこは落ち着いて養生ができないからと、海老屋という店の寮で養生をしているということ、病気が原因不明で、かなり悪い状態であること、本人はもう覚悟をして死を待っていること、そして大事にしている弟のために身代わりとなって死ぬのだということを話します。誰かが恋人の身代わりで死ぬのかと尋ねると、恋人は民弥だが、そうではなくて京都の大学に通っている弟……もうすぐ卒業と言うときに病気になりずっと卒業できないでいる……の身代わりなのだということをお三輪は説明します。照吉は谷中のどこかに七日間、願掛けをしにいき、その成果があって、弟はすっかりよくなるんですが、実はその満願の夜明け、見上げるような杉の大木の上から突然なにか死んだ鳥が落ちてきて、ああ弟はもう助からないんだと思ったけれど、自分が身代わりになると誓って、弟がよくなったのだから替わりに自分が死ぬのだと思っている……というのがお才から聴いたというお三輪の話なのでした。※このたりは朗読でも一番わかりやすいところでした。

お三輪の話自体が非常に不思議な怪しい話なのですが、そのきっかけとなった民弥の話はどうなってるんだと言うことで、民弥になぜお産のある家がないかと尋ねることになったのか、そのいきさつを話してくれと皆に促されます。

ここで明くる晩に時間が移り、民弥は西片町の自分の家で連れ合いである梅次に昨晩の話をしている場面になるんです。ここが面白いところです。ちょうど前の節の続きを話しているところなのです。実は民弥もお三輪の話で出てきた谷中の闇(くら)がり坂という場所で妙なことに出会ったのでした。人力車に乗って通りがかったとき、昼でも暗いと言われるところなので、夕刻ならなおさらのこと、そんな場所ですが坂なので車から降りて自分も歩いて、車夫は勢いよく坂を登って行ったとき……左手に小さな人がいて、いやな臭いがただよっており、その小さな人に呼び止められたのでした。

引手茶屋は舞台の中央(それが1階)、右手(そこが2階)に作られていたのですが、西片の家は舞台の左端に作られていて、民弥と梅次がそこにいます。そしてその後ろのやや高くなったところにその小さな人物(婆)が立っているんです。婆のせりふは婆を担当している中山美保さんがしゃべります。

民弥がしゃべりと婆のせりふとが交互に進み、それに梅次の応答がはいり、さらに時々地の文の朗読が入ります。民弥の言うところによると、臭いのはその婆が首から荒縄でしばってぶらさげている烏の死骸のせいなのでした。婆は彼が吉原にいくというのを聞いて、「火の車」でいくのかと訊いてきました。「火の車」というのが腑に落ちないので民弥が「火の車?」と何度も聞き返しますが、真っ暗な森の中を真っ赤に燃えからまって走ってきた車で自分が吉原に行きたい、自分に貸せと言ってきます。何しに行くのかと尋ねると、「取揚げに行く」と説明します。それで民弥は「ああ、産婆か」と思ってしまったのでした。そして貸してやることにします。その烏は何にするのかと尋ねると婆は「まじないにする」と答えます。その話を皆にしたんだけれど……と昨夜のことを梅次に語り続けます。窓から見える女郎屋の3階の部屋の蚊帳の前へ、例の婆が蚊帳の前を歩いているのが見えたけれど、また見えなくなってしまったこと、そのあと、どこかで烏が鳴いたこと、お三輪が今の烏の声は照吉姉さんが亡くなるっていうことじゃないのか……と言ったりした後……大きな動きが動きが起きたことが梅次に語られます。

つまりまあ、その婆が引手茶屋に現れれるんです。そして自分がここに来たのは「とりあげる」ためだと言うのです。「とりあげる」のは赤子をとりあげるのではなく人の命をとりあげるという意味なのでした。ただ、せっかく来てみたが、その女が京都にいる弟に未練があってなかなか死なないので猶予をして、その代わり胸に爪を立てて苦しめてやったというのです。そのあとすさまじい問答が続くのですがぜひ原作でお読み下さい。人間のおごりを笑い飛ばすその勢いがすごいです。そして、集まっている人の中から、女を一人、かわりにとりあげていくと言い出します。さらには男でもよいと言い出します。大混乱に陥りますが、突然、京都から女の弟がやってきた、これで未練はなくなったようだ、弟の身代わりの女をとろう……おまえたちのことは遊んでみただけだ……もう一人いるから二人の女を抱えて帰るのは重いが……と言って婆は去ったのでした。もうひとりの女と言うのは、三階の部屋でおきた無理心中で死んだ女郎一人のことなのでした。

照吉が死んでしまうという痛ましい終わり方ですから、そこに気持ちを込めて聞いた人には本当にもの悲しいお話ですし、婆の(非人間の世界の代表)の訴えに気持ちを込めて聞いた人には、それとはまた別の哀しさが感じられたと思います。でもその声は人間にはだんだん聞こえなくなっていっているのでしょう。もう一度聴いてみたかったです。
posted by dunno at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/181549797

この記事へのトラックバック