2018年06月15日

貧乏寺?! 仁平寺の和尚様

4月14日の朝、入院中だった母が亡くなりました。12月に誤嚥性肺炎で高熱が出たもののまた元気になってくれるものと思っていました。一時はかなり元気になり、食欲も若干回復しましたが、また次第に食欲がなくなり、別の病院に転院して一週間もたたないうちのことでした。あとで知ったのですが、誤嚥性肺炎というのはかなり厳しい病気なのですね。また、アルツハイマーというのは最後は食欲がなくなって死んでしまう病気なんですね。最初に入った病院の看護師さんが、ここまで元気になったのは奇蹟だとおっしゃっていたのを首をひねりながら聞いたのですが、やはりもう限界だったようです。いつもよく覗かせていただくブログにこんな記事があったのを昔読んだのですが、自分の親の危機が迫っていた時にはすっかり忘れていました。

母の老衰死〜最後の3ヶ月の記録
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/3-4817.html

最初の病院にいたときに、かなり長い間点滴を一日2袋やってもらっていて、水ぶくれがあちこちに出始めてからは1つに減らしてもらっていました。もう点滴のできる場所がなくなりそうだとは看護士さんからうかがっていました。転院してからは点滴はされなくなりました。一時は、自分の口で食べることもできて、本人も「おいしい」と言っていたのですが、すぐにまた食べなくなってしまったそうです。容態が悪くなったと連絡があった13日の金曜日(!)にぼくは新幹線で岡山から山口に、妹は下関から山口に車で駆けつけました。妻は車で追いかけるようにして山口に来てくれました。こんなことを書くと不快に思われる方もあるかもしれませんが、ぼくも妹も母に対しては色々思うことがあって、病院の方は「ご家族の泊まれる部屋がありますよ」と言ってくださいましたが夜の8時くらいまで付き添って、その晩は引き上げました。結局朝7時前に病院から母の容態が悪くなったと連絡をいただき駆けつけましたがましたが、死に目にはほんの少しの差で会えませんでした。

葬儀に関してはあらかじめもう決めているところがあったので、すぐに連絡、そして朝早かったですがお寺(山口駅近くの永福寺さま)にも連絡して、土日で通夜と葬儀をすませることになりました。

実はお寺のご住職(11年前の父の葬儀、その後の法事で本当に色々お世話になりました)が昨年の夏に亡くなられていて、今回の通夜や葬儀はよそのお寺のお坊様が替わりを勤めて下さることになったんです。それが仁平寺さんなんです。うちのお寺の方から仁平寺さんに連絡がいって、葬儀場まで打ち合わせに来て下さいました。まだ若いお坊様でした。二人の子どもたちとその家族だけでこぢんまりとやりたいとお願いし、父の戒名の説明をしてそれに釣り合うようなものをお願いしました。すると夕方までにいい戒名を考えて下さり、妹も僕もとてもそれが嬉しかったです。

翌日の葬儀では、母が仏になるのを助けるためには、家族がしっかり大きな声でお経をあげることが大切だと話して下さり、皆で大きな声で(妹は途中から泣いてしまいあまり大きな声ではなかったですが)お経をあげました。今まで出た葬儀でそんなに参列者がお経を上げるのを見たのは、創価学会員だった伯母(母の一番上のお兄さんのお連れ合い〜)の葬儀のときだけだったと思います。とてもいいお葬式だったと思います。

昼間の打ち合わせの時に、一週間ごとの二七日・三七日・……はどうされますか、と仁平寺さんに訊かれたので土曜日なら来れると思ったのですが、よく聞いてみると、土曜日に亡くなった場合は金曜日がその日にあたるんだそうですね……それでは仕事があるから無理ですと答えますと、自分の方でお経をあげることはできますがどうしましょうかと訊かれたので、自分たちが行けないのならそれはしていただかなくていいですと、答えてしました。あとで、悪かったな……と思ったのですが、そのことについてはまた後で書きます。とりあえず、本当の七七日=四十九日は平日で無理なのでその前の5月29日に四十九日をすることだけ決めて、永福寺に連絡し、お寺で四十九日をするように手配をしました。

四十九日のあとの食事には来ていただけないかと思っていましたが、思いがけず、来て下さるとのお返事を仁平寺さんからいただき楽しみにしておりました。

ところで11年前に亡くなった父は山口市の市営墓地に埋葬していたのですが、規約では山口市内に住む管理者を指定しなくてはいけないことになっているんです。母が生きていた時は母が管理者だったのですが、母がなくなってしまうと、山口市内に家族や親戚はだれもいなくなってしまいました。父母はおそらく、ぼくが山口市内に住んでくれるようになることを期待していたのでしょう。すみません、山口は退屈すぎて住む気になれません。もちろん、ぼくの同級生はたくさんいますが、いくらなんでも墓の管理者は頼めません。墓をどうするかということは以前から困っていたのですが、妹が、永福寺さんで永代供養ということで納骨堂に入れて貰おうと提案してくれて、幸い、空きがありましたのでその手配もして、墓じまいをすることになりました。

ともかく市役所に行ってその手続きをしなければばなりません。平日で行ける日……ということで5月1日に山口市役所にでかけました。山口駅からまっすぐ歩くと市役所があるんですが、歩いていると目の前のお店からひとりの托鉢僧が出てきて、せわしなく道を横切り反対側に渡られたんです。どうみても仁平寺の和尚様。あれっと思った時にはもう道の反対側に行っておられたので声を掛けられませんでした。お忙しいということは伺っていましたが、本当に忙しそうでした。

色々手続きも順調に進み、5月19日(四十九日の一週間前)にお墓から骨壺を取り出してお寺に届けることになりました。仁平寺さんのご都合のいい時間に合わせて待ち合わせして一緒に墓地に行き、墓を片付けて下さる石屋さんもその時に来て下さりました。前日は大荒れの天気でしたがこの日は午後から晴れて最高の日和でした。

四十九日の日もよい天気でした。法要では葬儀の時と同じように、皆で大きな声でお経を読みました(妹はやっぱり途中で泣いていました〜本当に泣き虫です)。そのあと、仁平寺さんがとても大胆なお話をしてくださいました。最初に、自分の話が不愉快だと思ったら、黙って手を上げて欲しい、そうしたらその話はやめるから……とおっしゃるんです。いや、確かにぎょっとするようなことを言われました(笑)。そういうことを最初に言われるのにはわけがあって、以前、話の途中で参列の方が怒り出して、話を止めるようにいわれたことがあるんだそうです。まあ、そのあとの話もあるのですが、ネタをばらしてしまってはいけないのでどういうことを話されたのかはここには書かないことにします。ぜひ直接仁平寺さんのお話を聞いてみてください。寺は曹洞宗なのですが、曹洞宗には修証義(しゅしょうぎ)というお経があります。開祖の道元の『正法眼蔵』などから色々抜き出して、明治時代につくられたものだそうです。その内容に関するお話でした。

その後、父と母の骨壺を納骨堂におさめて、3台の車に別れて食事の場所に移動し、仁平寺さまと一緒に食事をしました。どいういう話の流れだったのかよく思い出せませんが、仁平寺さまがTBSの『Nスタ』という番組に出演されたという話をされました。それに関する番組のページはもうなくなっているのですが、それを紹介しているサイトがありますのでリンクしておきます。

「お坊さんの本当のお仕事は布教です」H30.2.1
http://kouanji.jp/sub1263.htm
「清貧寺 極貧寺のお坊さん 宗教法人法をご存知ですか?」H30.2.3
http://kouanji.jp/sub1264.htm

テレビ番組で「貧乏寺」を色々紹介しているんだそうです。で、仁平寺さんも紹介されたんだそうです。
仁平寺の和尚様(田中大道とおっしゃいます)。
こちらにお写真が載っています。(いたずらっぽい眼をしておられるでしょ?)
TVでは2つの極貧寺を取り扱ってました。
一つは曹洞宗のお寺です。
元ネタは月間住職ですね。
TVでも月刊住職の矢澤編集長が監修されてました。
引用元は「“清貧” お寺のオカネ事情 月収10万円以下!?家族4人」「極貧寺 “生き仏”の暮らし 月収6万円…全部分けちゃう」です。


元教師で、家族4人で月収10万円以下のお寺を取材。
やってきたのは山口市にある曹洞宗・仁平寺。
住職の男性は17年前に高校教師をやめて住職になり、10年前に結婚し2人の子どもを授かった。
月収10万円について、男性はウソではない等と話した。
そのからくりに密着した。
午前10時に住職は付き合いの古いお宅でお経をあげるのが日課。
お経をあげたときのお布施は無いことは珍しくないという。
お寺の収入は葬儀と法事などでそれ以外はないという。
これでは家族4人は支えられないので山口市内のアーケード街に行き読経してお布施をもらう。
これは托鉢という修業で、この日は約1時間行い2,500円のお布施を得た。
これによって檀家以外からの葬式などの依頼が増えたという。
他にも夜は座禅会で月収を2万円アップ。

「托鉢という修業で、この日は約1時間行い2,500円のお布施」、毎日できるわけではありませんから、この2,500円は寺の経営にはほとんどプラスになりません。
「山口市内のアーケード街に行き」、このための車のガソリン代等の経費がかかります。
「これによって檀家以外からの葬式などの依頼が増えた」、これが最大のプラスです。
そしてお坊さん本来のお仕事の布教になっています(^∀^)

「夜は座禅会で月収を2万円アップ」、これはそのまま受け取ると失敗になります。
単純な座禅会で布教は非常に難しいのです。
10年以上継続されて成果をあげているお寺は非常に工夫をされています。


もともと大学卒業後、色んな仕事をされて、最終的には高校の講師をしておられたんだそうです。それが、僧侶になりたいと思われて、最初は長野のあるお寺に入門して修行をされたのだそうです。ですが、もてあまされて(笑)、永平寺に行きなさい……ということで永平寺で修行を積まれました。そうしているとあの寺はどうか、この寺はどうか、という話が来るんだそうです。お寺も次ぐ人がいなくて困っているのですね。寺の娘と結婚して寺を継ぐという話はいっぱいあるんだそうです。東京都下でそういういい話があったのだそうですが、檀家数も多いので、その付き合いはどうしてもはでになります。週何回も銀座に出るようになるんだそうです。車も国産車じゃだめ。外車に乗るのが当然というお寺なのです。永平寺での師匠にあたる方が、おまえはそれでいいのか? と言ってくださり、それは自分の望む望むところではないと考えられて何を思ったか、誰も引き受け手の無い山口の田舎の小さい寺を引き受けることになったのだそうです。檀家の数がすくないのであまり仕事がありません。その月の収入予定が3万円程度しかないことも多いそうです。それでも托鉢などをがんばってなんとか小さい子ども二人の4人家族がなんとか暮らしていけているとのことでした。

実はぼくも、小学校6年の頃、釈迦の伝記を読んでお坊さんになりたいなと思っていたことがありました。中1の夏休みに、母の実家に行った時も仏教関係の雑誌を持っていってそれを読んでいたら、創価学会の伯父さんがそれを見て「こんな本もあるよ」と行ってそっち系の本を何冊か見せてくれたことがあります。この伯父は軍属として中国(満州?)に行っていましたが、敗戦でシベリアに何年も抑留され最後の帰国便で帰ってきたそうで、色々な思いがあったのでしょう、創価学会に入って熱心に信心しておられました。とても穏やかで優しいおじさんでした。おばさんのことは子供心にも綺麗な人だと思っていましたが、昨年亡くなられました。そのあと母が亡くなって、母のきょうだい6人、その連れ合い、みな亡くなってしまいました。母のすぐ上のお姉さんはずっと独身で、実家で内職をしておられました(印刷された割り箸の袋用の紙にのり付けして袋を作り、それに割り箸をいれ、それをさらに十何本かまとめて袋にまとめる)。そのおばさんとぼくの祖母は猫が好きでとてもかわいがっていました。おばさんは母の実家にいない時もあって、どうしたんだろう……と不思議に思ったこともありますが、なにか訊いてはいけないような雰囲気を感じていたので、一度も訊けませんでした。色んなことはぼくも想像していましたが、あるとき、父方の親戚のところで、「あのきちがいのおばさんはどうしてる?」と訊かれたことがあって、ああ、やっぱりそうなのか……と思いました。このおばさんには映画に連れて行って貰ったことがあります。まだ小学校の低学年の頃だと思います。映画の題はわかりませんが、内容は四谷怪談で、お岩さんが出てくるところでは怖くて前の座席の陰に頭を隠したのを覚えています。まだ母の頭がしっかりしている時に、おばさんのことを訊いたことが一度だけあります。なんでも、裸になって通りを走り回ったこともあったんだそうです。でもぼくの覚えているおばさんは物静かな優しいおばさんです。母は父方の親戚のところでは色んなことで肩身が狭かったのでしょうか。父は仕事に忙しくて実家に帰ることはなかったので、母がぼくと妹を連れて帰省することがほとんどでしたが、父方の祖父の前で母が泣いていたのを覚えています。

話を現在に戻しましょう。

永福寺の亡くなったご住職の息子さんはまだ若いので修行中。今年の暮れには永福寺に戻ってこられると聞いていましたので、こんどの初盆ではまた仁平寺さんのお世話になるものと思っていましたが、夏だけは息子さんが戻ってこられるとのことで、仁平寺さんのお世話になるのは今回で終わりになりそうです。「一期一会ですね」とおっしゃっていました。永福寺の先代の和尚様もとてもいい方で、インドで勉強したときのお話もうかがったことがあります。仁平寺さんはどちらかというとちょっと奇人・変人(いい意味で使っています)。出会えてよかったな〜と思います。

そんな貧乏寺ならもっとお布施をあげればよかった……七日ごとにお経を上げて貰えばよかったと今では思いますが、最後の最後にそんな事情を聞いたのでちょっと手遅れでした。もしこれを読んでおられる方の中に山口方面の方がおられましたら、ぜひ仁平寺さんのお話を聞いてみてくださいね。
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2018年02月23日

Andrew Ranicki passed away.

Andrew Ranicki passed away on February 20. He was 69 years old. He was an expert on algebraic theory of "surgery" (aka algebraic L-theory). He recently published a new book, titled "The Geometric Hopf Invariant and Surgery Theory", jointly with Prof. M. Crabb of Aberdeen. I have a copy of the book on my desk now. The book is dedicated to his grandson Nico Marcel Vallauri. See the picture. Nico is a son of Andrew's daughter, Carla. The picture was taken by her.

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I owe a lot to him. My Ph.D thesis (1982) completely depends on his fundamental works on surgery.

During the 80's I was thinking about "squeezing" of "quadratic complexes" of Ranicki. I thought I could prove a squeezing result for chain complexes using a sort of Alexander trick for chain complexes, and gave a talk at a conference at University of Notre Dame. Andrew immediately found that something was seriously wrong with my argument, and he changed the topic of his talk and gave a counter example to what I claimed! But he was very kind and tried to be very vague about my errors, so most people there did not understand the point of his talk. He privately explained his argument to me in detail, and told me to come and work in Edinburgh. That encouraged me a lot.

I did not forget his words and spent the academic year 1990/91 in Edinburgh with my family. Andrew was so kind and prepared everything for me and my family. On our first evening in Edinburgh, my younger son Hisashi (Yamasaki Hisashi) had a fit and hospitalized. Andrew helped us a lot.

This one year was very fruitful for me mathematically. Andrew described his ideas to me very clearly, and I could understand what he wanted to do very quickly. But I was rather slow after that and it took me 5 years to materialize the "controlld K" paper and it took me 10 more years to materealize the "controlled L" paper. After finifhing them I was very tired, but it was worth working on it. Later, Guentner, Tessera , and Yu used our controlled K and L papers to prove good results related to Novikov Conjecture. I was very happy, and I believe Andrew was also very happy about it!

Besides mathematics, I also learned plainTeX from him. (Eventually we all moved to AMS-LaTeX later.)

As for squeezing problem, Erik Pedersen insisted that L-theory squeezing should hold true without any K-theoretic assumtions and actually gave a proof when the control space is a circle, around 1998. I was rather skeptical, because of my earlier failure, but Erik was very enthusiastic so I kept the problem in my mind for several years without any success. But around 2003, I could come up with an idea of inductive application of Alexander tricks, and we could give a proof of a squeezing theorem for controlled L-theory. In the proof we used the ingredients of controlled K-theory and L-theory papers of Ranicki-Yamasaki. In the 80's, I did not know the technology which had been already developed by Andrew.

I have been naively imagining that Andrew would live very long, because his parents lived very long and Andrew was always full of energy. So the news of his death was very shocking to me. I will never forget the day "February 20", because it is my birthday and also a birthday of John Milnor who was one of the pioneers of surgery theory.

Thanks a lot, Andrew! Please rest in peace.

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2011年12月01日

先生のお宅のステンドグラス

ガラス好きになった最初のきっかけは、ぼくの先生がステンドグラス好きだったことだと思います。1979年8月末から1982年8月末まで3年間、米国バージニア州ブラックスバーグにあるバージニア工科大学で勉強しました。そのときの先生が フランク・クインでした。

クインがステンドグラス好きだとわかったのはプリンストン大学に連れて行って貰ったときのこと。数学科のある建物だったかどうかは忘れましたが、大きなティファニーのステンドグラスがある場所に連れて行ってくれました。それまでティファニーと言えば宝石店と思っていましたが、それ以後はティファニーと言えばステンドグラス☆

研究集会に行く途中、ステンドグラスの専門店に寄ったこともありました。

そして、ある夏休み、彼が家族でフロリダ旅行をする間、彼の家の留守番をしてネコたちの世話をしたときに、彼の家にも素敵なステンドグラスの窓がふたつあるのを知りました。

後に(1987年)、バージニア工大で研究集会があって、彼の家(前のよりももっと田舎に引っ越した家)でパーティがあったときに写したのが下の写真です。

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左のステンドグラスは見ているだけでうっとりしました。右のは古い教会で使われていたものだそうです。

左のステンドグラスは下の写真でわかるように、かなり部屋の中の高い位置にあるので、ちょっと見づらくて残念。また、前の家はすごく暗くていい雰囲気でしたが、今度の家は窓ガラスがやや多すぎて部屋が明るく、せっかくのステンドグラスがもったいない感じもしました。

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下は、研究集会会場で撮ったクイン(左)と彼の大学院時代の先生ウィリアム(ビル)・ブラウダー(右)の写真です。

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大学4年のとき、ブラウダーの "Surgery on Simply-Connected Manifolds" という本を買いました。130ページという薄い本なのに、未だに読み終えていません(トホホ)。そう言えばデビッド・ロッジの小説で大学の英文科の教員のパーティで「ハムレット」を読んだことがないと発言した男がクビになるエピソードがありましたが、それ並みか……。

また学生時代の話に戻りますが、夏休みにワシントンDCから北上してニューヨーク州、さらにボストンまで行く旅をしたとき、クインに教えて貰ってコーニング・ガラス美術館にも寄りました。いい美術館ですけれど、膨大な点数があり、疲れました(笑)。また行ってみたいです。

ブラックスバーグでアパートに住んで最初に買った皿がコーニングのCorelleというブランドの軽くて割れないお皿でしたので、コーニングにはすごく親しみを感じます。その皿は実は今も使っています。つまり30年以上使っていることになります。なにしろ壊れないんです。

バージニアを離れてミシガンに移ってからも、ティファニーの葡萄のあるステンドグラスのポスターを買って飾っていました。それは埼玉に引っ越してからも飾っていましたが、さすがに今は見かけないので処分したのでしょう。

ステンドグラスのある家には住めないけれど、小さくてきれいなガラス作品を窓際に並べたりテーブルに置いたりしてささやかに楽しんでいます。

※ ルイス・C・ティファニー美術館にも名古屋で一度、松江に移ってから一度行きました。今はもう松江には無くなってしまいましたが、あそこの素晴らしいステンドグラスは今どうなっているんでしょうね〜。ご存じの方があったら教えて下さい。
タグ:ガラス 松江
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2011年07月23日

観光外輪船「ミシガン」

今朝の日経の文化面をじっくり楽しんで、日経新刊にあげられている『韃靼の馬』を買おうかな……などと思いつつ、残りはさっと目を通し、特集宣伝記事(京都経済特集でした)は飛ばそうとページをめくろうとしたときに、ふと目に飛び込んできたのが「涼感、琵琶湖クルーズ」という見出しの記事に添えられた観光外輪船の写真でした。

別に昔乗ったことがあるとかいうわけではありません。実はまだそもそも琵琶湖を見たことがありません。

写真を見て思い出したのは、ミシガン大学でCalculus(微積分)を教えた一人の学生のことでした。

1982年の8月にバージニア工科大学で博士号を取った後、ミシガン大学の数学教室に9月からの3年契約・更新不可のポジションを貰えて、ブラックスバーグからアナーバーに引っ越しました。義務は理系学生のための Calculus のクラスを受け持つことが中心でした。

バージニア工科大学でティーチング・アシスタントとして教えていたときもそうだったのですが、やはり学期末の学生による授業評価で外国人なまりに苦情があったりすると、ちょっとため息のひとつも出てくるんです。

ところがある日、研究室に韓国系の学生さんが友達といっしょに話をしに来てくれました。彼ら二人は非常に優秀な人たちで感心していたのですが、ぼくの授業がとても面白いと言ってくれて、そういうポジティブなフィードバックは珍しいので、とても嬉しく思いました。

四方山話の中で日本の話になったとき、彼が、自分の父親は日本の琵琶湖でミシガンという船をやっていると教えてくれたのがすごく印象深く、他に何を話したかはもうすっかり忘れてしまいましたが、これだけは頭に残っていて、日経の記事で彼のことを思い出したのです。

名前も覚えていないし、彼の専攻も忘れました。でも、利発な学生でしたから、きっと社会に出ていい仕事をしていることでしょう。

下に載せたのは、当時いた研究室です。他に3人でいっしょに使っていました。写っているのは Joel Hass。もうひとりは Leon Karp でした。

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